Twitterライブで『教育格差』について話しました!
Twitterライブの内容も踏まえて考えたことを簡単にまとめたいと思います。
教育格差の「格差」ってなに?
教育格差と聞くと、塾に行く機会、ミュージカルに行く機会、といった機会の格差を思い浮かべがちですが、ここで言われているのはもっと多様な状態です。
いい大学に行くことを親から期待されること、進んで塾に行くことが普通である地域の空気、自分の要求をかなえるために交渉しようと思える意識、といったふわっとした空気や期待感、意識を得られるかどうかが家庭や地域の違いによって生まれていることが教育格差なのです。
大卒割合によって町の文化的雰囲気が異なり、それが教育熱の高低の基盤となっている。教育熱の高い地域に住む子供たちは、周囲の大人から高い教育を受けることが良いことであるというメッセージを意識的・無意識的に受けながら育つことになるのである。
松岡亮二(2019)『教育格差』p.61
つるたまちゃんはTwitterライブの中で「格差というのは自分の人生をコントロールできるかどうかだと思う」と言いました。
全員大学に行く必要はありません。しかし、性教育で性の知識を持っているかどうか、大学進学の選択肢が自分の中にあるかどうかは、自分の人生をコントロールするために重要なことです。その格差はあってもいいのでしょうか。
これからどんな社会を目指すべき?
私が目指したい社会は今の時点で3つあります。
1つ目は、自分の人生をコントロールするための知識は学校で教えてもらえる社会。
例えば、性教育。
(大学進学のメリットを伝えることは自分の人生をコントロールするための知識といえるのかな?それはわからないです。)
2つ目は、就学前支援で子どもの基礎的な能力の格差が生まれにくい社会。
自己肯定感やコミュニケーション能力といったものは小学校に入学する前の時点で養われます。しかし、生活費を稼ぐのに精いっぱいで子どもに時間をかけられない家庭も多くあります。
乳幼児がいる家庭に給付金を配ったり、明石市のように0歳児のいる家庭に毎月訪問したり、そういった行政の支援が求められます。
3つ目は、学歴で分断されない社会。
もちろん完全に連帯することは難しいけど、「いい生活をしたいなら大学に行けばよかったじゃん、努力すればよかったじゃん」などと思わない社会。
自分自身も周りは大卒ばかりなので、そうじゃない人への想像力が足りないと思っています。
学歴だけじゃなくて地域やジェンダー、国籍などのちがいもそうですね。
そもそも学校がある意味は、いい大学に行かせることじゃなくて、民主的な社会の形成者を育成するためです。
もちろん生まれによる学歴差も無視していいわけではありませんが、「自分が参加したら社会を変えられるかもしれない」といった意識の格差はなんとかならないかな…と思っています。
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